村山の高札場跡に一里塚の標柱を建立

2016-03-05 07:00 am by 須坂新聞

お知らせ icon 村山郷土史学習会前会長の宮沢良太郎さん(90、須坂市村山町)は先ごろ、自宅敷地に隣接する「高札場」跡地を取得し、村山集落の中央にあったとされる「一里塚」をアピールする標柱を建てた。書家(雅号「瓏邨」=りょうそん=)でもあり、行書体で「一里塚跡」「左ふ久新満(福島)、右お於志万(大島)」と記す。現会長の黒岩春男さん(68)と会員で棟りょうの黒岩聖(さとし)さん(66)が建立に協力した。
 接する道路は県道村山小布施停車場線。かつては川東街道(江戸時代まで)や谷脇街道(明治以降)と呼ばれた。長野市綿内から須坂市福島―中島―村山―相之島を経て小布施町へ。また、千曲川左岸(長野市側)から布野の渡しで川を越え、人々が行き交った。
 高札(こうさつ)とは、法度・禁令や犯罪人の罪状などを記し、一般に告示するために高く掲げた板の札。高札場は明治初めに廃止されるまで、街道の宿場や名主宅前など目立つ場所に設けられた。
 一里塚は1里(約4km)ごとに街道に設けられた塚。多くはエノキや松を植えて旅人の目印となった。明治以後は道路拡張などにより取り除かれた。
 一里塚の記述について『上高井誌歴史編』(上高井教育会発行、昭和37年)には「今日明確な形を残しているものはみられないが、古絵図上に見える村山中央のものは、谷脇街道上、道の西側にあったもので、現公会堂へ曲がる所からやや北の西側に一里塚の地名を残している」とある。
 宮沢さんは取材に、「村山に一里塚の伝承があってもよさそうだが、古老の話に聞いた記憶がない。高札場の地が一里塚の目印だったと思われる。古文書や古絵図に一里塚の新たな情報が見つかればいいが」と話す。
 標柱は黒岩聖さんの作。千葉県山武産、床柱用杉材(18cm角)の銘木を使い、野石を彫って固定し、屋根を付けた。石から木が生えているように見える。
 46年のキャリアの黒岩さんは「大工仕事は簡単につくったかのように見せるのが大事」と話す。本業の傍ら、かつて信州須坂町並みの会の会員として市内に案内塔を建てた経験が生きたという。
 丸い野石を使うのは降雨・降雪時に水が地面に自然に流れ、柱の根元の腐食を防ぐための工夫という。
 建立について、宮沢さんは「地元の人には特に理解を深めてほしい」。黒岩春男さんは「一里塚をきっかけに郷土の歴史に興味を持ってほしい。この位置と判断したが、新たに古絵図が出てくることも期待したい」と話す。
 村山の先人は、権現社付近に居住し、水害を避け、東側へ移住したものとみられる。
 江戸時代中期の正徳4(1714)年に作られた絵図には村山の集落が堤防によって囲まれているという。川東街道(谷脇街道)は旧百々川の水害を避けるために設けられた東堤防上を通っている。江戸時代初めの1680年〜88年の完成。その後、千曲川との間に西堤防が築堤されたものとみられる。

2016-03-05 07:00 am by 須坂新聞 - 0 コメント



須坂新聞


 須坂新聞はタブロイド判(20P~24P)で毎週土曜発行(年間48回)長野県須高地域(須坂市・小布施町・高山村・長野市若穂地区)で購読をいただいております。また配達地域外でも郵送にてご購読いただけます。購読料は1100円(月額/税込)です。購読お申し込みはこちらから。