米持から奈良平安の集落7軒と石帯に付ける丸鞆検出〜須坂市教委調査で

2018-04-14 07:00 am by 須坂新聞

お知らせ icon 須坂市教委は3月2日〜4月2日、米持木瓜原(ぼけはら)地籍で宅地造成に伴う発掘調査をした。宅地内道路部分から8〜9世紀(奈良・平安時代)とみられる集落遺跡が検出した。幅・奥行き共に5〜6mの竪穴住居7軒を確認。付近からは律令国家の下級役人が腰に締める石帯(せきたい)に複数付ける「丸鞆(まるとも)」と呼ばれる円形の石の一部が検出した。
 須坂市内では初。丸鞆は、かまぼこの断面のような形。欠けているが、全体は縦2.5cm、横3.4cm。黒い粘板岩か。裏側にくくり穴が2カ所開いていることから、3点で革製帯(石帯)に固定したものか。出土の深さは地表から30〜50cm下の住居跡近くから。
 調査に当たった田中一穂生涯学習スポーツ課学芸員は「丸鞆はムラの長(おさ)で高井郡の役所(郡家か出先か)へ出勤する人が所持していたのでは。平安京から米持にもたらされた束帯(当時決められた役人の服装)の一部とみられるが、どんなルートで伝わったものか。住んでいてたまたま落ちたのでは」と推定する。
 調査範囲は幅6m、延長50mの道路部分と浸透升に当たる部分の合計約360平方メートル。
 調査地点は、10世紀に作られた『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(百科事典)に記される高井郡稲向(いなむき)郷の中心地の一部とみられる。
 検出住居跡のうち、4カ所(4軒)からはかまど跡が出た。丸い河原石を両側に組み、上部に平らな石を載せたようだ。
 かまど跡の周辺には使用した土器(土師器=はじき=、須恵器)の破片と、下に焼土(赤い土)が見られた。土師器(茶わん)片の特長から「平安時代の初めころ(820〜830年)か」(学芸員)
 最も南のかまどのたき口の底部からは、土師器(かめなど)の破片を敷き詰めたとみられる跡が出た。「土器を再利用してたき口に意図的に敷き詰めている。長く火を受けたためか土器片に劣化が見られる。類例が今後市内で見つかることを期待したい」(同)
 暴れ川の百々川と鮎川に挟まれた地域だが「調査では洪水の影響は小さかった。竪穴住居は20〜30年で使えなくなり、建て替える必要があるので土器はそのまま残していったのか」と想像する。
 発掘調査には1日最多15人が関わった。

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