2017-08-11 07:01 am by 須坂新聞
私が5歳の時に長野空襲があった。長野駅東口の長野機関区から直線で200mほどの所に住んでいた。長野機関区の中に、高射機関銃を据えた兵隊の陣地があった。
朝8時ごろだったと思うが、機関士だった父が慌てふためいて帰ってきた。「長野飛行場が攻撃されている。隠れろ」と言われ、家族で家の押し入れに隠れた。長野が空襲を受けたのは初めてだったので、どういうものかよく分からなかった。
駅東口一帯はすべて国鉄の施設だった。午前9時ごろから午後1時ごろまで徹底的に攻撃された。夕立のような勢いで、機関銃の陣地が一瞬で吹き飛んだ。兵隊3人が亡くなったとされているが、もっと多くの人が亡くなったと思う。
隣の家のご主人も機関区に勤めていて、被弾した。病院に入院し、後日、奥さんがその弾を見せにきた。
長野機関区は、機関車を修理するだけでなく、飛行機の補助タンクも作っていた。そうしたこともあり、狙われた。
米軍機が去ってから善光寺近くの妻科の親戚の家に逃げた。終戦の15日はとても静かな日だったことを覚えている。長野機関区の建物は全部なかった。
長野空襲で亡くなった人の数ははっきりしていない。長野空襲を語り継ぐ会などによると今現在は47人ということになっているが、実際はもっとたくさんいると思う。多くは民間人が犠牲になった。
当時、徴兵保険があり、私も入っていた。保険金額1,000円だった。昭和16年の生後9カ月の時に入った。生まれたばかりの赤ん坊に、こういう保険をかけざるを得なかった親の気持ちは、大変なものだったと思う。二度とそういう社会にしてはいけない。
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