井上・仁礼ゆかりの名高い寺と交流70年〜九州・大慈寺から訪問団

2013-11-09 07:00 am by 須坂新聞

お知らせ icon 井上氏(信濃源氏)出身の玉山玄堤和尚が開山、開基は須坂市仁礼の出身といわれ、南北朝時代に南朝方で活躍した武将楡井頼仲公という「大慈寺」(鹿児島県志布志市)から「須坂(仁礼・井上)訪問団」の一行33人が訪れた。1日、仁礼・井上関係者約50人と仁礼会館で盛大に「昼食交流会」を開いた。仁礼産を使ったまつたけ酒やまつたけご飯、きのこ汁、山菜、おやきなど郷土料理でもてなした。
 同寺(竜興山大慈広慧禅寺)は670年ほど前の興国元(1340)年に創建された臨済宗の名高い寺。
 開山は玉山玄堤和尚(〜1351)。京都南禅寺開山大明国師(若穂保科出身)の法嗣(弟子)。中国に渡り8年在留。天童山(浙江省寧波)の浄慧禅師に師事し、玉山の号を与えられ、帰国に際し師から詩が贈られ伝わっている。没後、仏智大通禅師と贈り名された。
 開基楡井頼仲公(1300〜57)は、大隅日向地方で肝付(きもつき)兼重と共に南朝に尽くした志布志松尾城主。建武2(1335)年ごろに志布志松尾城を築き、豊後(大分)で教化に努めた玉山玄堤和尚を招いて大慈寺を創建した。
 正平12(1357)年、北朝方の畠山直顕との決戦に敗れた。2月5日、一族と共に大慈寺の支院宝地庵に入って自刃した。辞世の歌「こしかたも 又行く末も此の年の 此月のけふ 只今にあり」が残されている。
 大慈寺と須坂(仁礼・井上)との交流は70年前の昭和16(1941)年にさかのぼる。同寺創建600年祭記念法要に栗岩英治県知事代理や訪問団(団長・坂本重雄井上村長、副団長・篠塚梅吉仁礼村長、団員・両村関係者)が招かれ、交流が始まった。
 その後昭和46年、30年ぶりに片山正行井上小坂神社宮司が同寺を訪問。郷土史『長野』に「楡井頼仲と日向大慈寺」を発表。昭和61年、平成2年、9年、16年、21年に訪問。
 一方、同寺から昭和62年、平成11年、17年に住職(69世石田晴康氏、70世石田恵一氏)らが来訪している。
 今回は徳満(とくみつ)正男団長や石田恵一住職、慶田泰輔(けいだたいすけ)元志布志町長らが来訪。歓迎は田中義一交流会長、目黒淳茂副会長、冨沢訓副会長、坂本康之顧問らで組織し、来賓で三木市長、牧良一須高農協組合長が迎えた。
 田中交流会長は「4年前の訪問では大歓待を頂いた。73年前の記念法要以来合わせて7回訪問している。遠く離れているが、次の世代へ大慈寺との関係を継続させるため理解を深める講座を開く計画だ」と述べた。
 石田住職は「地方の自治は自分たちで考え実行していくとして中央と三度戦をした。頼仲公は辞世の通り57年の生涯の、命の終わるその時も尊いと、今を大切に生きることを強調された。一方、玉山和尚は元寇(元の日本襲来)など世の中の争乱に関係なく中国へ渡り、本物を極める姿勢を貫かれた。現代までお二人の精神は生きている」と語った。
 三木市長は「仁礼、井上は文化・歴史を大切にする地域。石田大僧正から人間として生きる大切なことを教わった」と述べた。
 慶田元町長は「頼仲公が造った志布志城をまちづくりの中心に据え、史跡にして合併前に国の指定を受けた。さらに住職に相談し、子供たちを国際人に育てようと国際港から中国へ研修に出している」と紹介した。
 また、志布志市(人口約33,500人)の本田修一市長からの親書「70年余り続く民間交流の輪が大きく育ち、広がることを念願する」との内容が高らかに読み上げられた。西沢昭さん(中島町)の農園でリンゴ狩りを楽しみ、2日は井上で史跡を散策した。

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