「堀直虎は幕末のいぶし銀」今秋歴史小説発刊の江宮隆之さんが講演会

2013-06-22 07:00 am by 須坂新聞

趣味・生活 icon 作家江宮隆之さん(64、山梨県)は9月、須坂藩13代藩主堀直虎公の生涯を描いた歴史小説『将軍慶喜を叱った男 堀直虎(仮題)』を発刊する。平成29年度に予定する没後150周年記念事業の一環で、須坂市が依頼した。10月5日には市中央公民館で出版記念の講演会も開く予定。江宮さんはこのほど、福寿荘(南原町)の招きで「直虎公と八重の桜」と題して講演を行い、約40人が熱心に聞き入った。

 大名は1万石以上、それ以下は旗本とされる中、須坂藩は大名ぎりぎりの1万53石。その13代堀直虎は最小単位の小藩の藩主でありながら、異例の若年寄兼外国総奉行、現代では外務次官のような要職に抜擢された。いかに有能で信頼されていたか。洋式軍備を取り入れ、激変に備えた。
 直虎は大政奉還した将軍徳川慶喜を諫めた後、33歳で自刃したとされる。何を諫言したのか。そして、直虎の死にもいまだに定説がない。私は、直虎は勤王ではなく、徳川に殉じたのだと思う。本来武士はこうあるべきと言外に秘めたのではないか。おそらく、直虎は「徳川本家を滅亡のふちに追いやったことは重大な裏切り行為。今こそ戦うべき」と慶喜を叱った。そして責任をとり、潔く自刃したのだと思う。まさに大義に生きた。
 直虎の人物を示すエピソードを紹介する。直虎が江戸を警備する
若年寄兼外国総奉行の時、尊王攘夷に動いた水戸藩鎮圧の命令に背き、直虎は50日謹慎の命を受ける。それは老中の任務なのに若年寄が指揮を執ったことに抗議して、筋を通したものと思われる。
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 大河ドラマ「八重の桜」は東日本大震災からの復興のために企画された。主人公八重は直虎と同じ時代を生きたが、残念ながら直虎とは面識がない。八重は武田信玄の参謀山本勘助の子孫にあたる。
 徳川2代将軍秀忠は側室にただ1人、保科正之を生ませた。その正之を武田家の遺臣が守った。正之は信州高遠の保科家の養子となる。有能で徳川家に重用され、23万石の会津藩主に。松平姓も許され、「幕府のために尽くす」との家訓を残した。子孫の松平容保が家訓を守り、幕末、京都守護職として幕府と運命を共にした。
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 戊辰戦争では、会津藩も参加した旧幕府軍が薩摩・長州などの新政府軍に負けた。見せしめのためにか、会津の人々の多くの死体が野ざらしにされた。死臭がすごく、伝染病の心配もあり、半年後に処理を許可した。
 会津は薩摩・長州を憎んだ。西南戦争で会津兵は志願して薩摩を倒した。長州への恨みは残り、萩市は10年前会津若松市に「もう120年たったから」と和解を申し込んだが、会津若松市は「まだ120年」と許さない。同じ日本人でも、歴史は重く、相手を許すことは大変だと感じる。
 東日本大震災で萩市はボランティアを申し込み、会津若松市は感謝して受け入れ、ようやく130年目に和解した。共に相手の歴史認識を理解しあう中で和解が生まれた。
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 直虎は幕府に殉じたはずだが、須坂藩は勤王藩として維新後も残された。幕末という時代、義に生きた直虎は幕末史にキラリと光るいぶし銀のような役割を果たしたと思う。徳川に義をかけた最後の男として、その美しさ凛々しさを描きたい。筆を進める中、愛着を強く感じるようになった。直虎を通して、知られざる幕末史にも光を当てたい。

2013-06-22 07:00 am by 須坂新聞 - 0 コメント



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