【須坂市教委の幸高発掘調査】平安時代の住居跡出現

2012-08-04 07:00 am by 須坂新聞

お知らせ icon 国道403号須坂市幸高〜井上拡幅工事(県発注、810m区間の4車線化)に伴う埋蔵文化財調査(両側1カ所)で、須坂市教育委員会はこのほど、道路北側から平安時代(9世紀半ば)と推定される竪穴住居跡と、ほぼ同時代の掘っ立て柱建物跡を検出した。また、道路南側から古墳時代中期(5世紀末)と推定される小型丸底のつぼ(土師器=はじき=、素焼きの土器)を発掘した。調査は8月末までの予定。1日約15人が張り切る。
 道路北側の調査面積は約220平方メートル。道路に沿って約36m、幅約6m。深さ2m〜2.5m。須坂市街地側に検出した竪穴住居跡は1軒分。住居内部に家屋を支える4基以上とみられる柱の跡が2基確認された。外周にも柱の跡が8基確認された。
 竪穴住居は地面を掘り込んで床面を作り、上部に屋根をかけた家屋の構造をいう。方形などで、炉やかまど、貯蔵穴が備わっているのが一般的。
 住居跡からは同時代と推定される小型のかめ(土師器)が完全な形で出土したほか、土器片が多数出土した。
 柱穴(ちゅうけつ)の底から見つかった縄文時代の石器について、調査に当たった生涯学習スポーツ課の田中一穂学芸員は「平安時代の住民が住居を建てる時に意識的に置いたもの」と推定する。
 さらに、縄文中期に東北地方で作られた土器(大木式=だいぎしき=)を須坂地方でまねて作ったと思われる土器片が見つかり、田中学芸員は「国道の南側で平安時代に拾ったものか。平安時代の人も骨董(こっとう)品収集や歴史好きだったのか」と話す。
 同住居跡について、田中学芸員は「平安時代前期に幸高にあったムラの一部で一般の農民が住んでいた。鮎川の洪水で運ばれたと思われるれきが堆積していることから、洪水で流される前に農民はいなくなり、空き家が洪水を受けて埋没した」とみている。
 また、隣に検出した掘っ立て柱建物跡は2間(約3.6m)以上×2間以上。「調査範囲を超えて広がっていて大きさは不明」(田中学芸員)。9本の柱間は1.7m〜2mでほぼ同間隔に並ぶ。穴の深さは50cm前後。
 「掘っ立て柱建物跡には洪水の影響が見られない。隣の竪穴住居との関係は不明で今後の整理を待ちたい」(学芸員)。
 一方、道路南側の調査面積は約1,000平方メートル。道路に沿って約50m、幅約20m。深さは2.5m〜3m。縄文時代前期から平安時代までの土器、石器などが出土した。
 小型丸底のつぼは高さ約16cm、幅約13cm。発掘作業員(須高シルバー会員)の徳永陸雄さんが掘り当てた。
 「出ないと思われていて、出るゾーンへ早くと気持ちが動いていた7月9日午後3時20分ごろ、石だと思って抜いたら形が見えてびっくりした。うれしかった」と語った。
 南側範囲の中央には鮎川の河川跡が幅20mにわたって確認され、上流から流されてきたと思われる黒曜石の矢尻などが出土した。

2012-08-04 07:00 am by 須坂新聞 - 0 コメント



須坂新聞


 須坂新聞はタブロイド判(20P~24P)で毎週土曜発行(年間48回)長野県須高地域(須坂市・小布施町・高山村・長野市若穂地区)で購読をいただいております。また配達地域外でも郵送にてご購読いただけます。購読料は1100円(月額/税込)です。購読お申し込みはこちらから。