【特集】思い出の屋代線①「生活の一部だった屋代線」

2012-01-01 07:00 am by 須坂新聞

お知らせ icon 私は町川田の屋代線の線路沿いに住んでいて、仕事も約45年間、長野電鉄に勤務しました。ほとんどは旧河東線の駅員として過ごしました。その間2度、地元の信濃川田駅に勤めました。最初は高等小学校を卒業して、入社後の昭和21年から約2年間。2度目は退職直前の昭和63年から2年間。その時は駅長でした。
 最初の時は終戦直後の混乱期でした。前年の川田空襲で、米国の艦載機から受けた機銃掃射の跡が駅舎の壁などに残っていました。プラットホーム沿いにある桜並木の根元にも、まだ銃弾の薬きょうが刺さっていて生々しく感じました。
 駅職員は駅長などを含めて7人いました。私は切符切りや荷物の取り扱い、信号機、レールのポイント切り替え、掃除など何でもやりました。新人だったので先輩駅員の食事も作りました。物資が不足していて、食糧は配給制でした。燃料も十分にはなかったので、駅前の材木屋から木をもらってきて使ったこともありました。
 当時は国鉄の長距離切符も販売していました。国鉄も列車が足りず、乗車人数を制限していて、駅ごとに切符の販売枚数が限られていました。冬に上野行きの切符を買い求める人が始発前から駅舎で待っていて、寒さに耐えかねて火を燃やしていてびっくりしたこともありました。
 電車が主要な交通手段で、まだ大室駅もなかったので、千曲川対岸の真島や大豆島方面からの利用客も多く、駅一帯はとてもにぎわっていました。駅前には運送屋が2店あり、酒屋や肉屋などもありました。
 電車が物流の中心も担っていて、貨物車には当時盛んだった小串鉱山や米子鉱山からの硫黄、須坂の生糸、リンゴや農産物などが乗せられて東京方面に運ばれていきました。毎日朝と夜に30両編成ぐらいありました。
 長野電鉄が志賀高原の観光開発を進めている時期で、現地に手伝いに行き、道路拡幅のために伐採した木を運んだり、植林作業などもやりました。
 昔、古い家に住んでいた時は、電車が通るたびに激しく揺れ、音も大きかったです電車が通ると時間も分かり、時計代わりでした。屋代線が生活の一部だったのでなくなると寂しくなります。

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