日露戦争、苦難の引率

2005-06-23 12:00 am by 須坂新聞

お知らせ icon 日露戦争中の明治38(1905)年5月〜六月、横須賀から中国瀋陽(旧奉天)まで補充砲兵83人を引率した後藤要治郎引率隊長(後高甫村長)の引率日記(写真)が10年ほど前、須坂市野辺町の後藤家で発見された。三男で郷土史研究家後藤喜久夫さん(86、東横町)が解読し、昨年小冊子にまとめた。苦難の末、無事兵卒を引率した様子が伝わってくる。
 喜久夫さんによると、要治郎さんは昭和21年4月29日に亡くなるまで引率の事実を語らなかった。「家に立派な軍刀があり、父が中国へ赴いたことは聞いていたが詳しく語らなかった。これまで日露戦争は歴史上のことと第三者的に考えていた」と話す。
 要治郎さんは明治13(1880)年6月10日生まれ。二十歳の33年徴兵制合格、東京湾要塞砲兵連隊に入隊した。36年伍長に進み、37年2月に日露戦争が始まり5月5日応召。大隊本部付として国内に勤務した。38年5月1日、補充兵引率官となり戦地奉天を目指した。
 日本は37年9月、旅順総攻撃を開始し、12月二〇三高地を占領した。38年2月に始まった最大の陸戦奉天会戦で3月10日に奉天占領。補充砲兵の派遣は、日本海海戦(5月27〜28日)で日本が優位に立つ前の戦局混とんの中での軍事行動だった。
 日記は横須賀―広島宇品―安東―永陵―奉天―大連―宇品―横須賀の約50日間の記録。中国大陸上陸後は足を痛めた兵卒20人を汽車に乗せ、治安不安定の中を2ルートで奉天を目指した。汽車組が汽車の転覆・脱線で遅れたことや、前年の攻防戦の生々しい戦場を目の当たりにして、6月7日奉天に着いた。
 帰路は一人となり「波が穏やかな玄界灘に向かい、はるかに内地の山が迎えてくれるように見えた。青山の間に村落が見えた時飛び立つほどうれしかった。海峡を過ぎ壇ノ浦の古戦場もここ」と帰国のうれしさを記す。
 解読した喜久夫さんは「奉天会戦後再び戦う準備のための派遣と推測する。文語体で判読が難しい上、戦地の様子を想像する大変さがあった。寒さに震えながら大陸で朝を迎えたことや、戦場のむごたらしさなどが記されている」と話す。
 要治郎さんは同年11月召集解除後曹長となり凱旋(がいせん)した。39年に高甫村書記となり、役場の軍事係や在郷軍人分会長などを務めた。昭和2年に助役、7年〜8年村長を務めた。退職後、須坂町税務係など務めた。村長時代には市川橋延長や官行造林の造成など行った。

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