「スミサカに秘められたなぞ」

2005-10-13 12:00 am by 須坂新聞

まちづくり icon 須坂市田の神町の丸山俊樹さんは先ごろ、日野郷土史研究会(小布施茂会長、農村環境改善センター)で「スミサカに秘められたなぞ」と題する会員研究発表をした。15年の「百々川瀬替え考」今春の「須高アイヌ語地名考」に続いて3回目。高井郡の神社と更級郡の地名とが直線で結ばれる。また、奈良県榛原町の「墨坂」地名はアイヌ語が語源では―など独自の説を展開した。
 芝宮墨坂神社―八幡墨坂神社―幸高・越智神社―綿内・高野(こうの)神社は一直線上に存在する(墨坂ライン)。中野市安源寺と長野市綿内の小内(おうち)神社の直線上には幾つかの神社がある。小布施・上下諏訪神社、同・郷原神社、小布施大元神社、高梨神社で、小布施・欅原神社と新田町・神明社は少し東(小内ライン)。井上・小坂(おさか)神社と綿内・小内神社の延長線は更埴の小坂(こさか)に達し、直前には治田神社がある(小坂ライン)。
 また、須坂ライン、天坂ライン、更級ライン、高社・岩井堂ラインが見つかり「偶然が多すぎ、何らかの意志が働いて神社の配列や地名がつけられたのではないか。注目は小内、小坂、須坂、天坂各ラインが通過するポイントに綿内の小内神社がある」と説明した。
 一方、スミサカのミが「訛(なま)って欠落」し、墨坂が須坂になったという説は、神社名の墨坂神社は転訛せず村名のみ須坂に転訛は妙な話。なぜ墨坂村にならなかったのか疑問が残る。
 「日本書紀」には三坂伝説(宇陀郡の三坂、女=め=坂、男=お=坂、墨坂)がある。高井郡には三坂に成り代わった三神社(小内神社、小坂神社、墨坂神社)があり、更級郡には転訛した地名の三坂(上山田・天坂や女沢川、更埴・小坂や戸倉・雄沢川、戸倉・須坂)が存在する。明らかに意図的に命名された。
 須坂の名の由来は、圧倒的に墨坂語源説が支持され、ほかに須尺(すさか)物部説、砂鉄説(スサは砂鉄、カは場所)須田坂説、洲坂・砂坂説、須(すべから)く坂説などがある。
 地名「須坂」は文禄三(1594)年の「定納員数目録」の「小布施並びに須坂」が初見。一見墨坂(古代の神社)―須田(中世の地名や氏)―須坂(近世の地名)へ転訛のように思われるが、須田氏は墨坂神社勧請以前から存在していたと考えられ、発祥は別。
 江戸初期に初登場する小村須坂村と一時期須坂市の大半を占めるほどの規模だった須田郷は位置が違い、須田―須坂の転訛は考え難い。転訛の場合、縮化が普通で、墨坂の四音から須坂の三音へは縮転訛と考える。
 地名「墨坂」(市川文書の応永十二年に井上・墨坂・椚原・青木京等の要害を攻め落とし…)初見の一四〇五年から文禄三年の地名「須坂」(1594年)まで190年間に転訛したと推測する。
 ミ欠落は明治の「県町村誌」に「須坂町は古時詳らかならず。後椚原庄須坂郷にして、往昔は墨坂と称呼し、中古に及び須坂に改めた。墨坂を須坂と改めたのは蓋(けだ)し邦訓墨陀を須田と記す例によるか、推古老の口碑に伝わる」とあり「墨陀を須田と書く江戸時代の例から、墨坂の墨も須と書かれ、須坂に転訛したのだろうか」と探る。
 16世紀当時、須坂地方の地名は「墨坂」「須坂」「墨田」「砂田」などが混然と使われていたのではなかろうか。現在坂田と井上に砂田の小字はあるが、墨坂、須田、墨田はない。
 アイヌ語訳でスミサカを七通りに解釈したが、西峠で火を起こす―が墨坂の由来と符合し、榛原町の墨坂地名はアイヌ語が語源では。(以上要旨)

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